織物ものがたり 伝統産業から見る北麓

第一回 織物工業の発祥
 伝説では、紀元前219年,秦の始皇帝の命を受けた徐福の一行が不老不死の薬を求めて霊山富士の麓、現在の明見に住みついて織物や養蚕を伝えたとされます。その後、徐福は鶴となり下吉田の福源寺境内で絶命。現在も境内には鶴塚が、また河口浅間神社には機神様として祀られる等、その名残りが残されています。
 文書としては,967年施行の延喜式に甲斐の織物としての記述が最も古く、麻や絹織物を政府に納めていたとあります。平安の時代に記録が残るほど、地域と織物は密着しています。今回から12回に渡って、富士北麓と織物の関係を紹介し、地元の魅力の再発見を目指します。
※写真は(財)山梨県郡内地域地場産業振興センター展示場
(参考文献:富士北麓・東部地域の産業史)

第二回 山梨県の工業の黎明「甲斐絹」
  郡内織物が全国に知られるようになったのは江戸時代。名称についての諸説はありますが、地元郡内では甲斐絹として製織、江戸市民に好まれ生産量が増えていきました。当時、井原西鶴や近松門左衛門などの文学書にも郡内縞の記述が、また、里唄としても「甲州みやげになにもろうた。郡内しま絹、ほしぶどう」と言った具合に、広く庶民の中へ浸透していった様子が伺えます。さらに明治16年、山梨県へ出張した統計院役員は、「県下ノ工業ト云ヘバ主トシテ製糸・織物ナリ」と記述しています。既に当時から、甲斐絹は世界へ向けて輸出も行われていましたが、大平洋戦争勃発とともに生産量は激減、昭和18年に消滅しました。

第三回 戦時中の織物産業と北麓住民
 北麓地域に鉄道や発電所が建設されて時代は電力へと移るなか、郡内織物は山梨県の主要産業として不動なものとなりました。しかし、昭和12年7月の廬溝橋事件を発端とした日中戦争、その後の第二次世界大戦は、この産地に壊滅的打撃を与えました。昭和16年の織物生産額、約7,300万円を最後に、昭和20年には、1,100万円、織機台数は6,700台へと激減しました。織機9,300台は鉄くずとして供出、甲斐絹はパラシュート布として使われたのです。技術開発面では統制下における金銀糸の脱色、擬毛・擬麻加工等々です。戦時下、男子の徴兵・徴用、女子の挺身隊、中でも吉田空襲、大月空襲は北麓住民には忌まわしい出来事でした。 
写真:クラフト展で昔を偲ぶ

第四回 戦後の復興期と神武景気到来
 悲惨な戦争は終わったものの生きていくのが精一杯でしたし、織物生産も駐留軍の統制下に置かれていました。この間、法の裏をかいくぐってのヤミ生産や景気の不安定からの休機、転業など目まぐるしい戦後が続きました。昭和24年、統制解除が行われ北麓地域における織物生産の官民一体となっての本格的な復興が始まりました。昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争は実需をもたらし、織物の売れ行きも好調で、この頃から甲州の裏地、夜具地洋傘地として全国に知れ渡り、また「もはや戦後ではない」と謳われた神武景気の到来を迎えました。白黒テレビで放映される力道山の勇姿を一目見ようとする群衆が街の随所にありました。 
写真:座布団・洋傘・夜具地

第五回 化学繊維の到来
 繊維の原料を生糸に依存してきた北麓地域は、世界的な繊維の開発競争時代のなか、全く新しい繊維材料を導入。研究・工夫を施しながら使い、生産品種も拡大していきました。いわゆる化学繊維と呼ばれる、石炭や石油を原料とする繊維です。世界初の化学繊維は1935年開発のナイロンです。戦後いち早く導入されたのが人絹と呼ばれたレーヨンやベンベルグで、服裏地に使用。アセテートも早くから導入し夜具地などに応用されたことで、当地の名前が業界内で一段と評価されていきました。その後もポリエステルやアクリルなど、現在も使用される化学繊維が次々と導入されています。今後はさらなる開発が進められ、想像もつかない繊維材料が身近にあることと思います。 
写真:化学繊維の布の数々

第六回 身近にある繊維製品品質表示
 景気が軌道に乗ってくると、多種多様な繊維原料(化学繊維や天然繊維)を用いたり、さらには製造業者や販売業者は誰なのか、消費者にとって何を基準に商品を選んだら良いのか分からなくなります。そこで昭和37年、国は品質に関する表示の適正化と消費者の利益を保護するため「家庭用品品質表示法」を公布しました。次の年には繊維製品の品質表示が義務化され、その後数回の法律の改正により、今日私達が目にする表示ラベルなどになりました。安心しての商品選びができるようになりましたが、時代は急速に変化する時代でもあったのです。昭和39年の富士スバルライン開通や同年の東京オリンピック開催は、北麓住民にとって外国を身近に感じる機会となりました。 
写真:表示ラベルの一例

第七回 織物総生産額が最高の時期
 ベトナム和平が成立した昭和48年、為替レートが1ドル300円となった昭和49年、何れの年も現在に比べはるかに多くの生産額で、年産300億円後半を維持していました。現在は約100億円ですから当時の貨幣価値を考えると想像もつかない莫大なお金がこの富士北麓にもたらされていたのです。化学繊維を用いた製品も多くなり、座布団地などには主にポリエステル糸が使われました。企業さんから「今までは数回の洗濯で破損して使えなくなり、注文も多かったが、今では何十回洗濯しても破れなく、注文が減ってしまった」といった話も多く聞かれました。この後、米国への輸出が規制され、当地も不況が深刻化しました。
写真:企画展開催中!!

第八回 海外からの繊維製品輸入量の増大
 資源の乏しい我が国にとっては、商品を製造し、輸出を行いその利益に依存しなければなりません。繊維産業はその典型でもあり、他の輸出産業の影響のなかで、常に好・不況の波にさらされてきました。輸入量に関しては昭和時代の後期から、中国をはじめとする新興経済国からの量が増大し、現在は衣類だけでも2兆円を超えています。先進諸国の輸入量を見ても、アメリカ、日本ドイツ、イギリスの順です。しかし、国内の繊維産業は健在で付加価値額は製造業全体の3%強。一大産業であることに変わりありませんし、富士北麓地域でもベターゾーン、トップゾーンといった高級品製造へ移行していく時期でもありました。
写真:ブランド化への取組例

第九回 生産調整〜設備の共同廃棄事業〜
 日本の繊維産業史上、特記すべきは設備の共同廃棄事業、つまり織機や撚糸機等の破砕です。北麓地域も例外ではなく昭和53年から62年にかけて、織機7207台、撚糸機741台(116,244錘)が破砕されました。この背景には、前回で記した輸入量の増大、米国の保護貿易主義による生産調整等がありました。なかでも「甲州もの」として知られた服裏地は、北陸地域の輸出用商品が内需に転向されたため生産量が激減、大きな痛手となり破砕や転廃業を余儀なくされた企業が続出しました。平成元年には消費税も導入され、北麓地域の生産者は消費者主導、グローバル化等に対し、さらなる自助努力が必要とされる節目でもありました。
写真:ブランド商品販売開始!

第十回 新しい時代・織物への挑戦
 平成2〜3年頃バブル経済は崩壊し、次の好況を迎えるまでの十年間、所謂「失われた十年」は北麓地域の繊維産業の大きな変革期でもありました。第一は素材の多様化。当地域は絹等の長繊維が得意でしたが、綿や毛といった短繊維も積極的に使用、さらには化学繊維の開発による用途や機能性を考慮した織物生産にも取り組みました。第二は若手経営者グループの台頭。これは小規模企業がグループ化を図り大きな仕事をするものです。第三は多くのイベント開催による販路開拓等です。その背後には、産・学・官による技術開発、人材育成や金融等多くの支援や自助努力があり不況からの脱出と、国内外へと販路を拡げていく時期でした。
写真:販路開拓例(ギフトショー)

第十一回 北麓の織物が世界へ向けて発信
 海外への輸出は、甲斐絹が生産されている時代から国等の施策として行われていました。しかし新興国における織物生産の増大により、最近は機能性やファッション性を重視した表地としての織物や小物雑貨を、海外で発表し、販売を拡大する自助努力がなされています。海外の主たるコレクション出品地はパリ、リール、ミラノ、ニューヨーク、フランクフルト、上海等。いずれも世界のファッション発信地です。このことは、欧米やアジアにおいて当地の織物の良さが理解されてきた証でもあります。素材は絹等の天然繊維やポリエステルなどの化学繊維等多岐にわたります。北麓の織物は日本を代表するブランドになりつつあるのです。
写真:産学官協働の新商品

最終回 新たな織物産地形成への試練
 北麓の織物は時代や生活様式の変遷に順応するため、人々の知恵と工夫によって幾多の困難を克服しながらモノづくりを行ってきました。その結果、昭和50年前後の年間生産額は300億円を越すまでに至ったのです。しかしながら、昭和60年のプラザ合意以降は円高不況、中国をはじめとする新興国からの輸入増に見舞われ、現在は100億円程度で推移しています。近年、北麓も含め国内の織物産地は大きな試練に直面しています。第一は消費者の購買意識の多様化。第二は世界を競争相手にしなければならないグローバル化への対処。第三は情報技術の普及による新しいビジネスチャンスの活用、等々です。具体的には海外の衣料品メーカーの日本上陸、国内大手繊維メーカーの東南アジアへの生産拠点シフト(3大化学繊維のポリエステル、ナイロン、アクリル等は顕著ですし、中国における繊維の生産量は日本の30倍以上です。)、価格競争の激化、インターネット等を媒体にしての販路拡大などです。これらを克服し、さらなる発展を遂げるためには、従来の下請的体質の改善、異業種との交流、グループ化等による企画から生産までのコストとリスクを考慮しての生産体制確立等の醸成が必要になります。勿論そのための人材育成や意識改革なども大切な事柄です。若手経営者が国内外市場に挑戦している不断の姿を見ますと北麓の織物の明るい将来を感じます。(完)
写真:上海での商談活動『上海展09』。若手も頑張っています。
協力  (財)山梨県郡内地域地場産業振興センター 
山梨県富士吉田市上吉田2277-3 0555-24-4406

http://www.fsp.or.jp/

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