富士山と北麓
〜歴史・生活・文化・自然 地域の魅力をみつけよう!〜

第一回「北斎も愛した北麓からの風景」
 葛飾北斎と言えば江戸時代の浮世絵師。代表作『富嶽三十六景』でお馴染みのように富士山を題材にした作品も数多く残しています。その有名な北斎が、私達の暮らす北麓からの風景に特別な思いを抱いていたとしたら…、何だかワクワクしませんか?
 北斎の作品中、最も絶筆に近い作品の一つではないかと言われる『富士越龍図』。70年にも及ぶ作画生活。その晩年を飾る作品からは、ある印象を得ると思います。「見たことがある風景だ。」と。富士山頂の形、すそ野の一部を覆うように左からせり出す山。私も思い当たるところがあり、小明見にある登山道入口から堂尾山へ向かいました。ここは地元の有志グループが整備しており、気軽に散策を楽しむことが出来るスポット。何度も歩いたその道を「北斎が登ったかも。」と考えて歩くと、途中にあるお地蔵さんや祠なども違う景色に見えてしまうから不思議です。眺望スポットに立ち、改めて前述の絵と比べる。松の描かれている部分にはこんもりとした城山、龍が立ち上っているのは明見湖あたり。間違いなく、北斎もここから富士山を眺めている。そう思わずにはいられません。

 現段階では、上記の話は私の想像の範囲を出ていません。ただ、「阿須見(=明見?)」からの風景と明記された作品も残っており、これが地元に伝わる徐福伝説と絡めて描かれています。このことからも私は北斎と北麓の関係に惹かれるのです。
 歴史はロマンと言われます。少ない資料から、あれこれ想像を積み上げて物語を構成するからです。余命わずかな状況の中で描かれたであろう作品の中に、北麓からの景色があったという事実。それほど、この富士の姿は北斎にとって印象が深かったと想像できませんか? 
 「地域の魅力」は様々です。北麓からの富士山は北斎にも愛されていた。これも郷土を見直す一つの魅力になると信じています。
写真:富士越龍図。
上は『富士越龍図』。写真左の堂尾
山からの眺望と比較すると、頂上の
形状や周囲の景観に類似点が多い。
協力  文:めだかの学校校長 勝俣源一

第二回「眺める富士山、触れる富士山」
 地元で生まれ育った私にとって、富士山は当たり前に存在するものであって、意識して眺めたり登ったりという対象ではなかったように思います。30歳の時登山ガイドを職業にすると決意し、初めて登頂に臨みましたが、大雨や強風、高山病などに見舞われるなど充実感よりも仕事への不安ばかりが残ったことを今でも覚えています。
 企業や学校の研修、結婚を控えたカップルに親子。過去に様々な組み合わせの方を案内してきましたが、どの方も富士山登頂にそれぞれの思いを託していました。悩みの克服、勇気や自信の獲得、親子の絆を確認する等々。気候条件やツアー内での高山病発生など、様々なアクシデントにより登頂を断念することもしばしば。しかし登頂を断念することで生まれるドラマは、頂上を極める達成感以上に強い感動を与えてくれることもあります。経験を重ねた現在、改めて富士山の持つ大きな魅力を、地元の方こそ存分に活用して欲しいと考えています。
 地元の方の利点は、すぐに登れるということ。遠方の方のように多額の交通費も不要です。何よりも自分に合わせた楽しみ方を選択できるのです。例えば、富士登山は真夜中に登って頂上でご来光、というパターン。これをちょっと目先を変えて、明るい富士山を登ってみませんか。山小屋を朝に出発し、途中でゆったりと風や雲の流れを感じながら頂上へ。この時間は登山道も空いているので、夕方までには五合目に戻れます。また頂上にこだわらず、一合目からゆっくりと登り富士の自然を満喫するのも◎。この後山小屋に泊まり翌日下山というのもおすすめです。高山病予防のため、急がないことがコツですね。
 地元ならではの楽しみ方はまだまだ沢山あります。大切なのは、直接富士山に触れる体験を通し興味を持つことです。興味がやがて地域や環境を大切にしようという意識とつながっていきますから。世界に誇る富士山です。まずは地元の人が大いに活用し、魅力を堪能しましょう。
五合目より下の富士山は自然の宝庫です。
頂上を極める以外にも、環境や自然など
学べること、感動することがたくさんあります。
協力  文:富士山登山学校ごうりき代表 近藤光一

第三回「徐福のロマンを今に」
 下吉田の福源寺に「鶴塚」がある(写真右)。ざっと300年のむかし、北麓の空を舞っていたという鶴の墓だ。碑銘によると、この鶴は徐福の化身だという。徐福は紀元前3世紀(BC 210年)、不死薬を求めて来麓したと伝えられる始皇帝の使者である。したがって鶴塚は徐福の慰霊碑ということになる。
 富士吉田には、このほかにも徐福の遺跡と文物がある。明見湖畔古原のお伊勢山に残る徐福墓と、大明見宮下家所蔵の古文献「宮下文書」だ。前者は江戸時代中期様式の墓石が建つれっきとした墓であり、後者は徐福が書きおこしたとされる歴史書である。また近年になって明見湖畔に「徐福像」が、富士浅間神社には「徐福碑」が建立された。なお、山中湖村長池には徐福子孫居住の伝承があり、富士河口湖町河口の浅間神社には、参道のど真ん中に徐福を祀るという「波多志神社」もある。これだけ見ても、北麓には古代のロマンが充実しているのが分かる。
 国内に目を向けると、北は北海道の富良野から南は鹿児島の串木野までの40市町村に徐福伝説が伝わっている。なかんずく、富士吉田を中心とする北麓の「富士山徐福」は、九州の「佐賀徐福」および和歌山の「新宮徐福」とならんで徐福伝説三大伝承地の誉れが高く日・中・韓・台の研究者達の注目を集めている。1982年、中国の連雲港市で文物が出土し、徐福が実在の人物として歴史の対象になったからだ。 今年は、その徐福が来日してから2220年の節目となる。そこで古代のロマンを平成の今に。徐福を北麓発展のかすがいとしたいものだ。
 福源寺境内の鶴塚。表面にかすかに『鶴塚』の文字が残る(写真上)。すぐ近くには漢文で書かれた鶴塚碑も建てられている(写真左)。
協力  文:富士山徐福学会 土橋 寿

第四回「人の輪で、地元がもっと好きになる」
 私の朝は、大きく窓を開け眼前に広がる富士を眺め、「今日の富士山はどんな様子かな?」と確認することから始まる。時間があれば忠霊塔までウォーキングする。早朝の澄み切った空気を存分に吸い、草花や野鳥のさえずりを聴いて、贅沢な時間を楽しんでいる。
 昨年の夏、いつものように山道を歩いていると月見草に目が留まった。視線を上げると、そこには悠然とした群青色の夏富士が。「この景色どこかで出会ったな。」と思い、それが太宰治『富嶽百景』の中の「富士には月見草がよく似合ふ」だったことを思い出した。ちょうど太宰治生誕100年の年だったので、私達「本町大好きおかみさん会」は9月の学習会で『富嶽百景』を取り上げ、読書会を催した。太宰の生き方に共感できず、学生時代以来太宰の作品を読むことはなかったが、恩師・山口毅先生の講義の下で作品を読み進めていく内に太宰のイメージが変わってきた。この作品は、主人公「私」が俗でありながら、高貴で温かく大きな存在である「富士山」を介して、出会った人たちの素朴で純粋な気持ちに触れ、ちっぽけで卑しい「私」が再生していく話である。純粋な魂の持ち主という太宰の一側面を発見し嬉しかったのかもしれない。学習会では「吉田の町」について話題になり、太宰が宿泊した宿、文学青年の新田さんや田辺さんの存在などに会員皆で目を輝かせ、「吉田も捨てたもんじゃないね。」と話は尽きなかった。太宰が晩年まで着ていた郡内織りの着物が、現在青森県金木町の「郷土民俗資料館」に寄贈されていること。それが山梨にあったら…など時間も忘れ、話し合った。そして太宰の妻となった甲府出身の石原美知子さんの存在に興味をもち今年五月には会の皆で「ヴィヨンの妻」も鑑賞した。
 私達「本町大好きおかみさん会」はみんな富士山が好き、本町が大好きである。元気で前向きに、そしてイベントを通じ、富士のすそ野のように人の輪を広げていきたい。
※(写真)昨夏の読書会。地元を語るテーマはあちこちにあります。
文:本町大好きおかみさん会 (代表/田辺)

第五回「冨士北麓“超”市民遺産『上のお浅間さん』」
 北口本宮冨士浅間神社は宝庫だ。お宝鑑定団に出せば凄い値が付くというお宝でなくて、いや、付くかもしれないが…。ともかくどんなに凄いか、行ってみたらどうかね。巨大な精神の浄化装置が眼前に広がっている。私の身近な学者の口癖で「元亀三年」という言葉がしきりに出てくる。どうやら五百年程前のことらしい。その頃からの歴史が書物などに現れていて、何となく現在の姿・形が想像できるのかもしれない。
 まず国道を入って百基近い石灯籠、日本一の木造大鳥居、山門、神楽殿、本殿はもとより、他に十数社の神殿がある。近頃私の気を引いたのは本殿西側、富士山登山道入り口にズラリと並ぶ小型の神殿たち(写真)だ。一般に八百万の神(ヤオヨロズノカミ)などと言うがそんなものではない。国津神社一社だけで一千五百万神というから頼もしい。菅原道真の天神社をはじめ、あまたの神々が祭られている。必ずご利益を頂けそうな気がする。神域を確定するには、石垣、草木、堀、川などの構造物が重要になるが、浅間神社は完璧だ。千年を超える巨木の森が清清しい霊気で迎えてくれる。
 この頃は、この神苑も外国人観光客に占領されそうな勢いだ。先日、思い切って「ニーハオ」と声を掛けたら「こんにちは」と返ってきた。日本人だった。外国人にとって神道とはいかなるものか、身に付いた文化の違いはどうか、などと考えたりもした。一方、日本人にとってはどうなのであろう。近くに住んでいる皆さんが、年に何回くらいお浅間さんにお参りをするか気になった。お祭りの時だけとか年に2、3度ならいい方で、全然行かない、という人も多いかもしれない。もったいないもったいない。忙しい自分を見直す機会として、神社にお参りする習わしを継承し、日本人の心を取り戻そう。
 お百度の母娘を包む朝の森 一九

※富士北口本宮浅間神社にあるたくさんの神様の神殿
文:川柳家 渡邊一九(敏雄)

第六回「火祭りに顕れる『火のカミ』を迎える」
  国道138号に隣接した石の鳥居から始まる北口本宮冨士浅間神社の参道は杉と檜を中心とする荘厳な社叢林と両側に建ち並ぶ石灯籠が見事です。
 でもわたしは、参道の石灯籠に火が灯ったのを見たことがありません。古老にお聞きしても、記憶に残っている方はおらず、神社の記録にもない様。この百年ほどは、灯されていなかったのかもしれません。
 鎮火祭(吉田の火祭り)で、浅間社や諏訪社はじめ全ての社と灯籠に火を灯したい、という「北口灯明講」の気持ちを宮司さんは承諾してくださり、おかげで献灯は4年になります。
 灯りは、持続可能な体制を整えた蜜蝋のキャンドル。最初の炎は、手もみ式火起こしで点火。ひとつずつ灯籠と神前に灯す作業は、カミサマゴトとしてやらせていただいています。
 火祭りの大松明と家々の松明はまさに火の海です。かたやキャンドルの灯りは、たいへん小さくわずかな火。火の大切さだけでなく、火の明るさと力を、思い出させてくださります。暗闇のなかだからこそ、感じられるのかもしれません。

 火祭りの火の海では近年、街路灯が消灯されますが、松明以外の灯りがもっと消えると、火の海の荘厳さをさらに感じられるのではないでしょうか。
 具体的には屋台と商店などから漏れてくる光です。
 本通りでは、火祭りならではのライトダウンを演出していただき、屋台は神社の石鳥居から真っ直ぐ下る道に集中してしてもらう。御旅所に松明のおおきな火の海と、屋台やイベントの2つが棲み分ける「火祭り周遊路」にしてはどうだろう。
 多くの人にそれぞれ楽しめる案だと思うのです。火の神秘さに、観光客などには気に入っていただけるのでは。

「写真:大西琢也 (火起師、NPO法人 森の遊学舎)」
文:北口灯明講 講員 槇田きこり但人

第7回「富士山がつくり出した自然の営み、そして恩恵」
 森は、様々な生命を育くんでくれます。毎日何気なく生活しているこの富士北麓の地。空から眺めると、私たちは広大な富士の裾野で富士山に抱かれながら生活していることがよくわかります(写真参照)。

 私の勤務する山梨県環境科学研究所は、標高1050mに位置し、富士山の火山活動で流れ出た剣丸尾溶岩流の上にできた樹齢およそ100年のアカマツ林の中にあります。1年を通して森を観察していると、実に様々な変化や森の恵みに気づきます。新芽が芽吹く春の森。ダンコウバイやミツバツツジ、フジザクラなどが咲き誇り、新緑が目に眩しく映ります。林床にはツマトリソウ、マイヅルソウ、キンレイカなど可憐な花が遠慮がちに咲いています。夏にはアカマツ、ソヨゴ、リョウブ、ウツギなど、いろいろな種類の樹木が太陽の光をいっぱいに浴びて元気よく光合成を行っています。森が最も育つ季節です。秋には、ヤマブドウ、ナツハゼ、ガマズミなど、色とりどりの実が熟します。タマゴタケ、ショウゲンジ、イグチなどキノコも顔を出します。そして紅葉。落ち葉は肥料となって森を育てます。動物たちのエサとなるドングリやクルミ、森のエビフライ(食痕)も見つかります。冬には、多くの木々が葉っぱを落として冬の寒さに耐えながら、春の芽吹きを迎える準備をしています。雪の上にはウサギやリス、鳥たちの足跡も。そしてまた春が…。
 
 季節とともに移り変わるこの富士北麓の大地で命を育む動物や植物、そして私たち。まさに生きものたちのにぎわい(生物多様性)を提供してくれるこの自然と向き合い、後生に末永く残していけるように守り育てていくことが、今に生きる私たちの役目なのです。

「写真:富士山航空写真 (渡辺通人氏提供)」
文:山梨県環境科学研究所主幹 渡辺賢一

第八回「下吉田の水道水と珈琲の素敵な関係」
 本町筋にお店を構えて6年が経ち、おいしい珈琲を入れるためにはおいしい水が必要なのだと、当たり前のことを改めて感じながら、毎日珈琲を点てています。

 富士吉田に生まれ、育った私にとって、水道をひねれば冷たくておいしい水が手に入るのはごく当たり前のことでした。夏に果物や飲み物を冷やすのも水道の水。水を飲もうと思ったら、コップを持って水道をひねる。その当時は、どこに行っても、このような環境があるのだと思っていました。上京し、東京での生活を始めて、この「当たり前」が通用しないことを知りました。ご飯を炊いても、あまりおいしくありません。さらに、留学のためにアメリカで生活をしていた時は、水道水を除菌しすぎて人体に良くない影響があり、改めて菌を入れているという話を聞きました。どれも、富士吉田では考えられないことばかりでした。

 6年前、縁があって下吉田に珈琲店を開くことになりました。おいしい珈琲を、時間を忘れてゆっくり味わってほしいという想いで始め、いろいろな焙煎屋さんの珈琲を飲み比べる日々が続きました。これだと思う珈琲豆に出逢い、その焙煎屋さんが遊びに来てくれた時のこと。お土産にと頂いた珈琲豆で点てた珈琲を二人で飲んでいると「この味を目指して焙煎してたんだよ〜。家で試飲した時はこの味は出なかったから、焙煎の仕方が悪いのかと思ってたけど、出てたんだね〜」。

 この一言に私も焙煎屋さんも水との相性(水のおいしさも当然ですが…)がどれほど大切なのかを実感しました。その実感を、確信に変えてくれたのが水道局の方のお話、そして偶然にお会いした山梨県科学研究所の方のお話でした。詳しい話を聞きたい方は、お店に来て聞いてくださいね。

お客さんの「おいしい!」という声をこれからも大切にすると共に、おいしい珈琲にしてくれている吉田の水を、きちんと大切にできるように心がけていこうと思っています。
文:まつや茶房 遠山靖子

第九回「青木ヶ原樹海への想い」
  とある小説家が自殺の場所として富士の樹海を記述した。
 そこから悲劇は始まった・・・・
法医学者の上野正彦氏は樹海の一斉捜索に参加し、実際に自殺遺体を目にしその著書「自殺遺体の叫び」で以下のように述べられています。

 樹海での死を選んだ人たちの「美しい死に方」のイメージと、現実の間には少なからぬギャップがある。彼らは自らの死後の無残な姿を客観的に想像し行為に及んだのだろうか。

 私は機会があり、樹海の中へ足を踏み入れるようになりました。初めは、自殺の名所の森で近くにあるからという感覚だったのですが、いざ入ってみてビックリしました。
 とても美しくて魅力的な森だったのです。自殺の名所という暗いイメージでは、決してありませんでした。
 誕生してまだ1200年の若い、特殊な条件下で広がった不思議な森には、約30キロ平方メートル内に700種以上の植物が繁殖し、季節によって様様な色彩を帯びます。何百種類もの苔が露を抱き、日の光に輝く様は、言葉にはできません。樹海内には遊歩道が整備されているエリアがあり、ルールを守れば、安全に楽しく自然を満喫できます。そんな森が私たちの生活しているすぐそばにあります。
 私は、多くの人に樹海の素晴らしさ美しさ、不思議さを実際に見てもらいたいと思っています。私自身も、富士の麓の特殊な環境でしか生まれなかったこの不思議な森に、これからも惹かれ続けていくと思います。

文:相澤正樹

第十回 「環境保全」クニマスからのメッセージ
 昨年末、絶滅したと思われていたクニマスが発見されたことで、ここ富士山麓の西湖は全国の注目を集めています。私の祖父も西湖でマスの養殖をやっており、北海道や東北などにヒメマスの卵を買い付けに行っていたようです。これらの卵の中に田沢湖のクニマスが混じっていた可能性は十分に考えられます。西湖の水温や湧水の絶妙な加減のおかげか、この西湖が種の保存に一役買っていたかと思うと、不思議な感じがします。
 実は7〜8年ほど前から、西湖では撒き餌による釣りを禁止して水質保全に取り組んできました。美しくておいしいヒメマスを育てるためには、西湖が清らかであることが必要、と考えたからです。ここ数年、「効果が上がってきたな。」と感じ始めた矢先でのクニマス発見ですから、我々の活動が誰かに評価されたのかな?などと勝手に想像して喜んでおります。不思議と言えば、先日秋田の田沢湖からやって来たクニマスの関係者のお名前が私と同じ「三浦久」でした。縁を感じますね。
 今、漁協も町や県と一体になってクニマスを守るという方向で動いています。しかしそのための条例作りといった条件面の整備はこれから。また天然記念物にすると、西湖の他の魚も釣れなくなるなど地元の産業に影響も出てくるという問題もあります。3月20日の釣りの解禁日が目前に迫っておりますが、クニマスと西湖の環境を守ることが発展につながるということ、そして地元が率先して守る努力を続けるということ、これに尽きるのではないかと考えています。
 ともあれ、クニマスの存在が西湖に関心を持って頂くきっかけになったのは間違いありません。「私たちの住める環境を守って欲しい」。そんなメッセージを感じます。

クニマスの標本(写真提供:富士河口湖町)
文:西湖漁業協同組合組合長:三浦 久

第11回 のんびりと山小屋を楽しむ登山はいかが
 世界遺産登録への取り組みから始まり、山ガールにパワースポット等々、ここ数年、富士山の登山者は多くなっています。私たち山小屋関係者も10年ほど前から、富士山文化の勉強を行ったり、山岳トイレのバイオ化、収容人数の基準作りと、登山環境や利用に関し、様々な取り組みを行っています。
 富士山の山小屋は、鎌倉時代にはすでに存在していました。当時の富士登山は一種の宗教的な行為であり、その行為を助ける存在として山小屋があったと思われます。ですから富士山の山小屋はそれぞれに守り本尊を祀っているなど、伝統色豊かな側面があったりもします。ただ寝るだけ…で過ごしてしまうには勿体無いかもしれません。
 
 山小屋を使うのんびりした登山で、富士山の歴史に触れてみることをお薦めします。改修された山小屋も増えましたが、まだまだ古い囲炉裏が残る小屋もたくさん。この囲炉裏を囲んで山小屋の親父との会話を楽しんでみてはいかがでしょうか。昔の登山の様子や歴史、様々な登山客の話。もちろん私たち山小屋の人間にとっても皆さんのお話を聞くことは楽しみであり、貴重な勉強の場。当たり前と思っていたことが、実は珍しいことだったということもよくあります。また同じ山を登る者ということで、お客様同士が仲良くなることもしばしば。「ご来光までには山頂に!」という制約から開放されれば、こんな楽しい時間を作ることは十分可能です。地元の方こそ、こんな登山が良いのではないでしょうか。

 昨年から「山小屋ミュージアム」というイベントも各山小屋で実施。山小屋を楽しむ企画をどんどん実行しています。時代のニーズに応えつつ昔ながらの良さが残る富士山の山小屋。急がずのんびり登ることで、歴史ある富士山の魅力が見えてくると思います。

写真:今は食事も充実。地元の方は一合目から登るのも◎。
文:富士山吉田口旅館組合:堀内康司

第12回 人と人との関わりの強さが北麓の魅力
  地震、津波、原発事故、大規模停電と大変な事が次々と起こりました。震災の際、私の知人のなかには近所のお年寄りを心配し安否確認に走り回った人や、障がいを持った方へ正しい情報が伝わるよう尽力された方、いち早く救援物資を集め現地に運ばれた方が数多くいらっしゃいました。この震災の中で、私自身、人と人との繋がりの大切さ、日本人の心の優しさ、美しさに触れることができました。
 この私、阪神タイガースをこよなく愛する大阪生まれの男が富士吉田に17年も居着いたのはまさに、このような心豊かな人たちが数多くいる北麓の地に魅力を感じたからです。貯金会に無尽会、消防団に婦人会等々。実に多くのコミュニティーがこの地には存在しており、これらを通じて人と人が複数の糸で結ばれています。これらの絆を通じて、お年寄りを大事にする、小さい子供・弱い者を守る、困っている人を助ける、といった行動がごく自然と行われているのです。
 実はこのことを、当の本人である地元の方たちがあまり自覚していない、というより当たり前のこととして考えているのが、私のような他の地から来た人間には嬉しい驚きなのです。大きな都市では、地域内や同世代の関係も希薄になったと言われます。でもここでは、同級生から町内会、職場に趣味とあらゆる機会で“輪(=和)”が発生し、人と人が繋がります。「皆さんが当然と思ってやっていることは、実はすごいことですよ!」と声を大にして叫びたいくらいです(笑)。
 世界に誇る富士山や私の大好きな吉田のうどんももちろんですが、他県の方に「北麓の素晴らしさとは?」と問われたら、私は自信を持って答えます。「人との関係を大事にし、人を愛し、人を信じ、他者に対するやさしさを持つ人がたくさんいる」と。

写真:私のお店にて。居酒屋は“輪”を感じる絶好の場です。
文:居酒屋ひなどり:酒井 潤

第13回 昭和初期の産業の一つ「富士山トロリー」
 大正12年ごろから昭和33年まで、富士山三合目と富士吉田駅を結ぶ鉄道が走っていたのをご存知でしょうか。林業用馬車軌道というのが正式名称ですが、私たちは“トロリー”と呼んでおりました。1台で直径30a、長さ4b強の木材を約10本。4tトラック1台分の荷物を運んだと考えれば実感がわくと思います。馬1頭で2台ほど曳いて登り、帰りは満載した木材とともに下ってきます。運転手はカーブに合わせてブレーキを駆使します。途中にはどうしても降りて、トロリーを押す難所もありました。もちろん雨や霜が降りたときは絶対に使用禁止でした。

 私の祖父がこの鉄道を敷設する技術者。山梨県からの依頼を受けて、10名ほどの仲間とともに高知県よりやってきました。始めに都留の鹿留で鉄道を敷設したあと、この富士吉田に来ました。その後に起こった関東大震災の影響から木材の需要が高まり、この富士山トロリーも連日フル回転。昭和15年ぐらいまでは存在した北口浅間神社の上の木材置き場には、それこそ千本を越す木材が山と積まれていました。
 私も5〜6年ほどトロリーに乗りましたが、時代の流れで昭和33年に軌道は廃止。その後はこの富士山トロリーの記憶も地域から薄れていきました。

 一時とはいえ富士吉田の産業として存在したこの富士山トロリーの存在を後世に残したい。そんな思いもあり、3年ほど前から記憶を辿り当時のトロリーの様子を絵画に残しています。また2年前には1/2スケールの模型も復元しました。軌道があった場所は、今は何もありませんが車で行くことはできます。これらの資料を元に、富士山トロリーを語り継いでもらいたいですし、地元の子供たちに復元したトロリーに乗ってもらえたら…というのが私の夢ですね。

写真:2年前に復元した1/2スケールのトロリー(写真提供:伊藤)
話:富士吉田市 伊藤 博明

第14回 登山との出会い、そして故郷の山“富士山”
 旧河口村に生まれ育った私にとって富士山、そして河口湖はとても身近な存在です。それは小学校校歌に、そして中学校校歌にも歌われており、作詞は共に村出身の文学者中村星湖先生。今もその歌詞は頭に浮かび、歌も口ずさむことが出来ます。作曲は中山晋平氏と古賀政男氏。中山先生は星湖先生の知己、そして古賀先生は終戦前のしばらくの間、河口村に疎開しておられたご縁かと思います。
 私が富士山に初めて登ったのは高校2年の学校登山。その頃は山登りに興味があるわけではありませんでした。就職のため都会に出て、ようやく自活できるようになった頃、故郷の自然が無性に懐かしくなり、職場の山岳会に入会しました。山村育ちの私には山歩きは実に壮快。先輩に教えて頂く自然の中での沢登りや岩登り。山歩きはまさに私の求めていたものでした。とはいえ所詮は職場の山岳会。それほど厳しくもなく、まあ趣味の域内でありました。そんな私が突然外国の山に誘われ、ベースキャンプキーパーのつもりで出掛けた山がアラスカのマッキンリー山でした。目標ルートは南壁アメリカンダイレクトルート。にわか仕込みの岩登り。アイスクライミング等の訓練はしましたが、とても自分の登れるルートではないと思いました。当時38歳の私が最年長。他は20代〜30歳そこそこの男性4人。ヒマラヤのように荷揚げを手伝うシェルパやポーターはおらず、全て自分達だけの登山。私も少しずつ荷揚げに加わりました。最後は下で待つつもりが、結局は仲間の励ましの言葉に支えられ山頂に到達。このルート女性初登頂記録となりました。この登山体験がその後の私のヒマラヤ登山の礎となり、エヴェレスト他ヒマラヤの8000m峰5座登頂へとつながっていったのだと、当時の仲間には感謝の気持ちで一杯です。世界の山々を沢山登りましたが、私にとって一番の山はやはり故郷の山、富士山です。

写真:2002.5.16 エヴェレスト山頂にて(写真提供:渡辺玉枝)
文:登山家  渡辺 玉枝

第15回 最高級の素材“富士山産の茅(かや)”
  丈が短いときは「まぐさ」、穂が付くと「すすき」、枯れると「カヤ」。同じ植物が成長ごとに名前を変えるのは、それだけこの茅が様々な目的に使用されていたことの表れだと思います。古来より富士山にはいくつものカヤ場が存在し、その形のよさ、しなやかさ、美しい黄色の肌は最高級のブランドとして今でも大切にされています。1年で3mにも成長し、その際にたくさんのCO2を吸収します。冬に刈り、春に野焼きをして、再び新しい茅がCO2を吸収して育つ。富士山の野焼きは茅の育成サイクルや環境から考えると、実に理にかなった行為でもあるのです。
 これら富士山産の茅を使って地域ならではの産業を生み出せないか、というのがここ数年来の私の活動のテーマです。持続可能な素材であり、断熱・調湿効果もある。約60年の耐用期間が過ぎれば肥料として土に還るので環境にも優しいです。ただ新築の茅葺き住宅、となると防火法の制限もあるので現在の住宅地では難しい。西湖・根場にあるいやしの里以外に忍野や山中、河口湖などで古い茅葺き住宅が残っているので、景観の保存という観点から修復させて頂くか、親御さんの住宅を引き継いで住もう!という若い世代の登場が待たれるところです。
 実は、屋根以外にも茅の利用方法は広がっています。ストローベイルハウスと呼ばれる住宅は、特殊な機械で固めた茅を積み重ねて建てられるのですが、避暑地や別荘地などで少しずつ建設例が増えています。富士五湖地域もせっかく地元で茅が取れるのですからぜひ手掛けてみたいというのが、私の思いです。また炭素の固まりである茅をペレット(固形燃料)にする取り組みも進めています。
 この地域では、茅は生活に欠かせない必需品でした。改めて産業としての茅を見直し、富士山ブランドの一品にしたいと思うのです。
写真:根場・いやしの里にて修復作業を行う
文:富士かやぶき建築  杉嵜 靖司

第16回 農業を舞台に“新しい物を作る”姿勢
 新しい物を生み出す。この視点・そして姿勢は、地域の活性には欠かせないものです。例えば富士山文化遺産登録というのは、あくまでも先人が積み重ねてきた“富士山”が前提です。これをどう発展に生かすのか? ここに「新しい物を生む」という視点が無ければ、次世代にはつながらないというのが私の持論です。
 私は農業の分野で新しいものを作りたい。そう考えて効率優先だった農業を、再び手間のかかる無農薬、無肥料低エネルギー消費の農業に切り替えています。「多様性ある農業」をキーワードに、一つの畑にたくさんの作物を作っているのです。農業を行う上でここ富士山麓の大きなメリットは、最大の観光シーズンが収穫の最盛期に重なっていることです。つまり観光客の食べる野菜は、「すべて地元で取れた新鮮なもの」というおもてなしが可能なのです。私は“地産地食”という言葉を使いますが、どの飲食店でも地元の野菜を使っているということが、他県や外国から訪れる観光客への大きなメッセージになると思うのです。他にも一般の方が家庭菜園を利用して、地域の農業に参加する仕組みにも取り組んでいます。前例のないことに挑戦するのは、大変ですが充実感も大きいはず。

 新しい物を生み出すことについては若い方のエネルギーにかなわないと思います。だから農業にも若い人がどんどん進出してくれたらと思うのです。日本人は手間をかけ時間を惜しまず頑張ってきたことで、戦後の復興を果たした歴史があります。震災を含め様々な状況が、いずれ日本人の働き方を変えると思います。その時には若者達の“新しい物をつくる”という視点が重要な役割を果たすと思います。「誰かが何とかしてくれる。」という他力本願よりも、「自分も何かしよう」という姿勢の方が楽しいですよ。
写真:“多様性”の実現を目指す農園の風景
文:オルタ農園  萱場 和雄

第17回 富士の麓に移り住み、人と出会い…
 3月11日の東日本大震災は私達に大きな被害と教訓を与えました。そんな中で、私は「絆」の大切さと「コミュニティ」の必要性を感じました。つまり「日頃からいかに人と人とのつながりを広く、深くできるか」が重要だと思っています。
 富士の麓、妻の実家である富士河口湖町に移り住んで来たのが9年前。当初は知っている人は全くいない状態でした。「ちょっとお酒が飲みたいなぁ。」と思っても誘う人もいないし、ましてや誘ってくれる人もいなかった。ここで災害に遭ったり、困ったことがあった時に助けてくれる友人、相談できる仲間がいない。そう感じたことも多かったです。しかし面白いもので、同じ境遇、同じ思いを抱く他県出身者と出会い、話を重ねるなかで次々と仲間が集まってきました。YMKという会の誕生です。Yは山梨、Mはもっと良くする、Kは会という意味。でも実際は「よそ者、婿の、会」という、少し皮肉めいた意味合いから始まっています。
現在は地元の方も参加し総勢18名ほどで、当初は憧れでもあったこの地域独特の「無尽会」をしています。
 こんな人とのつながりから、環境を考える無尽会「ECO会」に誘ってもらったり、仕事仲間と協力会を結成したり、地元の消防や青年部会に参加させてもらったりと仲間が本当に増えました。また富士河口湖町内のボランティア活動にも参加し、多くの方と知り合うことができました。

 今、私には9年前に抱いていた心配は全くありません。広く・太い「絆」と大きく・暖かい「コミュニティ」の中にいます。ここ富士北麓は人との結びつきを大切にする地域だと、改めて実感しています。富士山の麓が、今後も地域を超えた「絆」で結ばれた「コミュニティ」であって欲しい。私はそう願っています。
 
写真:YMKが参加するイベント 河口湖ドラゴンボート大会
文:YMK代表  渡辺 靖彦

第18回 自然の食材に地域ならではの魅力
 富士河口湖町は農産物以外にも天然の食材、野生鳥獣などが豊富です。私は本栖湖で民宿とレストランを営んでいますが、30年以上前から鹿やイノシシなど野生鳥獣を使った料理でおもてなしをしてきました。近年、鹿の食害が増えたことで、県から管理捕獲の割り当て頭数も増加。捕獲した鹿を使った名物として精進湖・本栖湖地区限定の「鹿カレー」も誕生しました。他にもスモークやステーキ、鍋、たたきなど、鹿肉を使った料理は色々提供してきました。良い素材を使い、心を込めて作れば、素人の田舎料理でも美味しいのです。
 精進湖には鹿の食肉処理場があり、捕獲された鹿の血抜きをし、厳しい検査を行います。それでも野生の動物ですから多少の臭みがでます。それを料理の方法を駆使しながら、味として楽しんでいただくのも醍醐味だと思います。現在はジビエとして、この鹿肉を東京のアンテナショップでも提供していますので、こういった活用方法が広がれば、埋もれていた地域資源の見直しになると思うのです。確かにスーパーにいけば、もっと新鮮で臭みもないお手ごろ価格のお肉がたくさんあります。しかし野生鳥獣を使った料理はその地域の風味というか、味や香りで違いが出ます。これを価値として高めていくのも面白いと思いませんか? これからの時期が鹿のいわゆる旬です。この時期に1年分を捕獲。肉の処理行い、保存することで1年を通じ鹿肉を味わえます。角をネックレスに加工するなど、命の有効活用にまだまだ工夫できる余地はあると思います。

 他にも河口湖レタスや大石芋などの農産物に、富士ヶ嶺の牛乳、本栖湖や精進湖の天然原木栽培のキノコなど、河口湖は食材が豊富。いずれは100%地元素材でおもてなし、というの大きな武器にしてみたいです。
  
写真:アカマツタケなど採れたての天然キノコ(上)。
県ジビエ活用協議会委員/松風代表 滝口 雅博

第19回 湧水のある環境を保全していく意味
 湧水というのは地下水が自然な状態で地表に出てきたものを指します。ここ北麓地域は富士山が巨大なタンクとなって雨や雪を地下水として蓄えており、各所に湧水となって湧き出ています。そして、こんな地域ならではとも言える貴重な生き物が「ホトケドジョウ」なんです。 
 このお魚は東北から近畿にかけての本州に生息する日本固有の種。水温の安定している湧水付近の、かつゆるやかな流れの水域でしか生息できないことが、生息範囲が限られている理由と考えられています。山梨では富士吉田忍野、西桂、都留でしか生息が確認されていません。まさに北麓ならではのお魚がホトケドジョウなのです。
 数十年まえの忍野村などでは、田んぼの溝や水路にそれこそ手ですくえる程にいたという方もいます。ただ食用ではないため価値を感じてはいなかったようです。2005年に発行された県レッドデータブックで絶滅危惧U類に指定。その結果を受けて、県が忍野村周辺の状況を調査しましたが、やはり生息数は減っているという認識です。このままでは自然界で見かけることがなくなる可能性があるのです。
 原因はいくつか考えられます。埋め立てによる湧水地の減少、湧水そのものの枯渇、そして水路がコンクリート化され、ホトケドジョウの好むゆるやかな流れや産卵に利用される水草や岸辺の植物が消えてしまったこと。開発したものを元に戻すことはできませんが、現在ある生息地をしっかり保全していかなければ…と思うのです。
 ホトケドジョウの生息する地域は水生昆虫なども豊富。またきれいな水にしか生えない梅花藻やナガエミクリも北麓地域には群生しています。湧水を守り、その流れを守ることは貴重なホトケドジョウ、そしてきれいな水や環境を守ると同時に、子ども達に地元の歴史や文化を伝えていくことでもあると思うのですが、いかがでしょうか。
  
写真:ホトケドジョウ(県水産技術センター提供)
取材協力/山梨県水産技術センター忍野支所 

第20回 環境保全活動の象徴「ホトケドジョウ」
  私たちのNPOは平成20年3月にスタートしましたが、その前身はEM菌による水質保全を目的とするグループです。なぜそのようなグループが存在するのか。それは忍野の水環境が悪化していたからです。水位の低下やゴミの投棄、生活雑排水…。下水道が整備されていない地区もあるため、きれいに見えても大腸菌などが検出されたりします。ただ見た目にはきれいですので、危機感を持つ方は少ないのです。
 そんななか、水産技術センターから「ホトケドジョウの個体数が減っている。」という話を聞きました。昔であれば当たり前のように見かけたホトケドジョウ。この生き物を通じ、環境に対する啓蒙活動を行おうというのが現N
PO結成のきっかけとなったのです。
結成した年の4月に、村民80名の協力を得てホトケドジョウが繁殖できるビオトープを造成。田んぼを掘り、湧き水を引き、ゆるやかな流れがある状態を整えました。ホトケドジョウが繁殖できる、ということを豊かな水環境の指標にと考えたのです。その後の調査でビオトープ周辺に2000匹ほどの稚魚を確認できました。繁殖に向けての手応えを掴んだ瞬間でした。翌年からはテレビや新聞でも紹介されたり、様々な団体が事業として取り上げてくれたことで認知度は上がりました。確実にホトケドジョウは環境保全のシンボルになっていると感じています。
 静岡県三島市を流れる汚れた源平川が住民の力で、きれいな川になった実例があります。住民の力で元々きれいな水環境をもっときれいにすることも可能だと思います。水環境はふるさとの宝。きれいが当たり前であって欲しいと思うのです。
 今後は村に働きかけて、ホトケドジョウの愛称「おかめ」を冠した水環境公園の整備なども進められたらと考えています。同時に生活の中で“水を汚さない”というように意識を変えてもらうことが、大きな一歩になります。
  
写真:平成20年 ビオトープ造成
取材協力/NPO富士おしの名水倶楽部理事長 渡辺 実 

第21回“みんなが主役”で富士とアートを融合
 2011年8月に10回目を迎えた富士山河口湖音楽祭は、18.000人の集客を数えるまでになりました。企画が生まれた背景には、河口湖ステラシアターをもっと親しんでもらう狙いがありましたが、「生演奏」という分野の将来性を強く感じていたのも大きな要因です。音楽を通じて人と人とが結びつく→それが文化として定着する→精神的な安らぎと潤いが町を育む=大きな価値になる。こんな構想が徐々に具体的な形へと成長していきました。
 構想を実現させるため、特に重要だったのが、住民の皆さんに関わってもらう場所や役割を作ること。一部の関係者で完結するのではなく、多くのボランティアに参加してもらい、アイデアを持ち寄り、全員で楽しめる場にしなければ定着しない、と考えたからです。また人の成長と同時にイベントも発展する仕組みも工夫しました。小さい時にレベルの高い芸術を“鑑賞”した子供たちのうち、一定数は音楽部員となる可能性が高まり“発表”する側として音楽祭に関わるようになる。中学生のプログラムや高校生のプログラムを通じて音楽の楽しさを知り、またスタッフなど周りの大人のサポートを受ける中で、「私も一緒に感動を作りたい!」という、“創造”に興味を持つ子が出てくるであろう。アートが人を育て、この育った人がアートを担う。そんな文化を長いスパンの中で生み出していこうというのが、この音楽祭のプロジェクトなのです。
 富士山麓という舞台の魅力があって実力のある演奏家や楽団の協力を得ることが出来ました。音楽祭が始まって10年。経験の蓄積も重なり、基礎の部分も向上、そして確実に人も成長しています。『みんなが主役』という言葉は、アーティストと住民、関わる人全てが音楽を通じて楽しめる場を作る大きな理念。富士山麓で芸術を通じて人々が育まれる。こんな文化を持った町が生まれたら最高だと思います。
  
写真:2011音楽祭の最終日
協力/富士山河口湖音楽祭実行委員会事務局長 野沢 藤司 

第22回 樹海の村より教えていただいた自然との共生
 富士を囲む五つの湖。その中では小さいが、ひときわ美しいたたずまいの西湖に、東京から移り住んで十五年がたつ。自然の中でゆったり子育てをしたいと思ったのが、移住のきっかけだった。初めてこの風景と出会った時のことは忘れられない。東京から二時間の距離で、こんなにも豊かな自然と静寂があるものかと感動し、どこか異境の地にいる錯覚を覚えたほどだ。こうして西湖に一目惚れして始まった、日本一の高さを誇る富士と、日本一の面積を持つ原生林・樹海に抱かれた地での暮らし。それは都会っ子の私が西湖の方達から、“自然と生きる術”を教えていただいた、ありがたい日々でもあった。山や森、湖にある四季折々の旬の恵みをいただき、地元の神様や行事を大事にして、自然と手を取り合ってきた先人の知恵を、垣間見させていただいたからである。
 三・一一の震災と福島の原発事故が起きて一年、私はそんな、西湖で教えていただいたことを、改めて心に刻み直している。便利な生活を追い求め、人が自然の一部だということを忘れていた結末が、痛ましい犠牲を出したからだ。西湖も四十六年前、台風により百人余りの方を亡くすという、足和田村災害に遭っている。それゆえに悲しみを乗り越えてきた西湖(絶滅種クニマスの発見の嬉しいニュースもあり!)の方達には、自然の豊かさと恐ろしさ…両面を知り尽くした懐の深さがある。
 自然の恵み、癒やし、観光となる側面…そんな、人にとって都合のいい面だけではない、自然の全てを見据えた上での共生の仕方とは?…この時代の転換期ともいえる今、私は、移住してきた頃の初心に返る気持ちで、どう自然とつきあい、暮らしていったらいいかを考え直している。
写真:西湖・根場浜からの富士山
不二せのうみ劇団主催・北麓の山や森の自然ガイド:福村 玲子 

第23回 郷土の文化・河口浅間神社の『稚児舞』
 毎年4月25日に行われる河口浅間神社の例大祭。一般的には「孫見(まごみ)祭」と呼ばれていますが、これは祭神である浅間様が孫の誕生を祝う、という由来からきています。湖畔の産屋ヶ崎までお神輿と産着が運ばれていく行事ですが、もう一つの見どころに『稚児舞』の奉納があります。
 この例大祭では10時〜15時の時間に御幣・扇・剣と3種類の舞いが奉納されます。地元である河口地区に在住の女児たちにより脈々と受け継がれてきたこの舞いの由来は、毎年7月28日の『太々御神楽(おだいだい)祭』にあります。時は西暦864年。その年に起きた富士山の噴火が翌年には「せの海」を埋める大災害にまで発展しました。そこで山梨で最初に富士山を鎮めるための神社となったのが河口浅間神社であり、稚児舞は噴火を鎮める祭神「木花開耶姫」の霊を慰めるために生まれたと言われています。故にこの太々御神楽祭は奉謝鎮祭とも言います。この祭には4月の舞に加えて、八方・宮巡りの計5種類の舞が奉納されます。
 稚児となるのは小学2年から6年ぐらいの女児。ここ数年は毎年7名で舞を覚えます。かつては神主か御師の家の子しか選ばれないという名誉ある存で在でしたが、今では健康な家庭の子ども達たちがその役割を担います。1ヶ月以上にわたり、舞いのほか立ち居振る舞いなどの作法を練習します。そして5日前からは楽師も参加し、夜の神社で本番向けの練習。学校や塾、習い事などで忙しい子も多いのですが、地域の文化ということで親御さんの理解と協力を頂いています。
 近年は観光という面から、この稚児舞が注目されつつあり、県外の方の姿も多くなっています。しかし、この稚児舞の文化は地域の方の手で守られてきたものですから、どんなに時代が変わっても、子ども達や地域の方が一緒になって楽しんで欲しいです。
写真:太々御神楽祭・宮巡りの舞(写真提供:富士河口湖町)
お話/河口浅間神社氏子総代 中村義朗 

第24回 1200年もの歴史を刻む河口浅間神社
 西暦864年に富士山の大噴火が起きたため、時の朝廷の命により富士山を鎮めるための神社して建立されたのが河口浅間神社。よく間違われますが浅間(あさま)と呼びます。他で呼称される浅間(せんげん)というのは、後世の富士山信仰の思想(仏教的な要素)も混ざった影響と考えられます。ともあれ地元・河口小学校の校歌にも「あさまの森も御坂路も、神代ながらの〜」と歌われているなど、神社と地域との結び付きは今も随所に見られます。お葬式も神主が行うのは、この地域ならではと言えるかもしれません。
 この河口浅間神社は延喜式内明神大社です。噴火から約50年後に全国の仏閣神社を調査した記録が『延喜式』にあり、その中にこの神社の存在が記されていました。これは南都留郡で唯一の存在です。かつてはもっと山手にあったとされていますが、今の国道137号にあたる街道が整備されたことで、山道も整備されたと考えられます。樹齢1200年を超える杉の木が植えられたのもちょうどこの時期ではないでしょうか。ちなみに、この時期には甲斐三駅のひとつが設置されていたと思われます。ずっと時代が下り、この道が鎌倉街道と呼ばれた時期にも、やはり籠の担ぎ手や馬の交代場所としての駅が設置されていましたから。東海道と甲斐国府を結ぶ交通の要所だったため宿場町も発達。そして富士吉田と並ぶ賑わいを見せた御師の町だったのです。
 現在は新しい道路も通り、歴史の残る街道を通ることは少なくなったと思います。しかし、この地に残る豊穣な歴史は語り継いでいかなければなりません。地域の老人会や隣組が大掃除や注連縄作りなどを通じて、今も神社を護っています。最近では1200年の歴史からパワーをもらうとして、バスツアーなども組まれているようです。神社を核として歩んできた河口の歴史、皆で語りませんか。
写真:河口浅間神社の鳥居
お話/河口浅間神社氏子総代 中村義朗 

第25回 富士山の楽しみ方は本人次第です!
 私にとっての富士山は江ノ島越しの風景でした。若い頃から富士山が好きで、その思いが高じてとうとう富士山麓に引っ越してきてしまいました。季節によって見え方が違う、雪の融け方で模様が出現。桜の開花を追いかけて御殿場からぐるっと富士山を一周したこともあります。地元の方にとっては当たり前のことも、私にとっては新鮮で楽しいことなのです。
 牧丘の乙女高原で草原を守る活動をして、自然環境を維持していく大切さを学びました。また富士山五合目で自然解説員として7年間活動したことで富士山の全体像を考えるようになりました。その後も富士吉田市のまち巡りイベントをはじめ様々な行事に参加。とにかく富士山について興味が湧いてくるのです。だんだん富士山のことに詳しくなり、現在は旧外川家住宅の協力員もしています。
 富士山は本当に興味が尽きない山。外川家の仕事をきっかけに富士講にも興味がわいて、富士講の方と一緒に登山したり、胎内祭や開山祭に参加したり、県外にある七つの富士塚を巡ったりと、信仰という面からも富士山を楽しんでいます。同時に自分が参加したイベントや風景などの記録をパネルにまとめています。ガイドの際にも役立ちますし、口頭では伝わりにくい事でも、写真パネルを見て頂くことで、理解を得やすいということもあります。
 富士山を眺めるその視点を、ほんの少し変えてみるだけで景色はガラリと変わるはず。自分なりの楽しみ方を考えて実行してみれば、まだまだ地域にはたくさんのワクワクが眠っているはずです。北麓以外にも須走の「グランドキャニオン」や「幻の滝」も一見の価値あり。地元に住んでいるということは、すぐにでも富士山を楽しめるということ。世界遺産登録も間近に控えています。まずは地元の方に富士山を楽しんでいただきたい。
写真:富士吉田胎内祭の様子
お話/山麓探偵団富士桜 代表:加藤信子 

第26回 富士山の「水」の素晴らしさを見直そう
 富士山麓には多くの飲料水メーカーの工場が進出し、今や『富士山の水』というのは一大ブランドとなっているようです。富士山に降った雨や雪が、水を通しやすい一番上の層(新富士)を通り、その後、玄武岩などから形成される地層を通ります。その際にミネラルが水の中に溶け込んでゆきます。やがて10〜数10年の年月をかけて地表に湧き水となって流れ出すのが、富士山の水なのです。
 厚生省(現・厚労省)設立の「おいしい水研究会」が定めた7つの水質項目という基準があります。富士吉田市の井戸水はこれらの基準の範囲内でありおいしい水の条件が整っていると言えます。北麓地域の水道原水もほとんどが軟水の数値。軟水は和食と相性が良く日本人好みということですから、いかに富士北麓地域が水に恵まれているかということが伺えますね。ちなみにバナジウムという成分も注目されることが多くなりましたが、こちらは15年ほど前に研究が始まったばかり。現段階では血糖値への影響よりも脂質の代謝に何か影響があるのかも…という程度で、健康への影響という点においては、まだ結論が出ていない現状です。
 富士山以外にも名水の地は多数あり、富士山の水だけが際立った特徴があるという訳ではありません。しかし、富士山という名前を通じてブランド化しているのは事実です。その結果として今、地下水の汲み上げ過ぎが懸念事項として認識されるようになり始めました。水質については既に山小屋のトイレ事情を改善するなどの対策が取られていますが、今後は量的な問題について、その把握のための計画も検討されています。対策を立てるためにまずはデータを、という段階ですね。
 蛇口をひねれば富士山の水。この環境の素晴らしさは、何物にも勝る宝ではないでしょうか。
写真:富士山の湧水を利用する手水舎
お話/山梨県環境科学研究所 瀬子義幸 

第27回 “憧れの富士山”がすぐそこにある
 富士山のふもと富士吉田市に赴任して4カ月ほど。この地域の人の中に、「富士山に一度も登ったことがない」と話す人が多いことに驚いた。富士山は世界文化遺産への登録をめざしている富士山は「霊峰」として信仰の山でもあることも、登録に向け強調される。
 その信仰の一つ、「富士講」が歩いた道を実際に歩いてみようと6月26〜30日にかけて、東京・日本橋から富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社までの120キロの道のりを歩く催し「御山参詣〜富士まで歩る講」に参加した。富士講は江戸で生まれた民間の信仰集団で、江戸時代中期に特に栄えた。集団で富士山まで歩き、山頂を目指したという。出発地点となった日本橋からほど近い鉄砲洲稲荷神社には江戸中期ころに富士の溶岩で作られたと伝わる高さ10メートルほどの富士山型の富士塚も残っている。当時、富士山まで行くことができなかった人たちが、こうした富士塚で参拝したり、「登山」したりしたらしい。都心に残る富士塚をみると、当時の人が感じていた「神聖さ」や「あこがれの強さ」などについても考えさせられる。
 富士山開山前夜祭の日に北口本宮冨士浅間神社に到着。催しとしてはここまで。私は山開きの取材のため、5合目から吉田口登山道を登り、ひとり山頂をめざした。7月1日未明には山頂に着いた。午前4時半過ぎ、雲の奥にうっすらと一瞬、太陽が透けて見えた。かつての行者も同じようなご来光を見たに違いない。富士山頂からみる太陽は、いつもより神々しい気がした。
 富士山はしっかりと準備をし、時間をかければ多くの人が山頂まで行くことができる山でもある。5合目から2泊3日の日程で登る人も増えているという。昔から多くの日本人にとって憧れだった富士山がすぐそこにある。この地域の一番の魅力はそこにある。
写真:富士講の道を歩く菊地記者(都留市夏狩にて)
文/朝日新聞富士吉田支局 菊地雅敏記者 

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